2015年4月2日木曜日

極上の歌手&指揮者が紡いだ奇跡の瞬間~《湖上の美人》現地観劇レポート

                                     加藤浩子(音楽評論家) 


それは、奇跡のような数分間だった。

静まりかえった劇場を浸す、光を浴びてきらめく金細工のような声。その声のゆくえを見守り、絶妙のサポートを続けるオーケストラ。恋人への想いを歌い上げる声は、時に熱を帯び、時に静まりながらもますます輝きを増し、その声に呼応して指揮者のしなやかな背中が、繊細な手先が、オーケストラピットの薄闇に舞う。声と指揮が完璧に手を取り合い、楽譜から最高の音楽を引き出す奇跡のような瞬間。
 
ケミストリー。

その言葉が思い浮かんだ。恋する2人が共有する天からの授かり物のような、奇跡的な瞬間。目の前の歌手と指揮者は、音楽を介してそれを体現していたのだ。これ以上完璧なコラボレーションがあるだろうか。 

3月10日、メトロポリタン歌劇場。ロッシーニの知られざる傑作《湖上の美人》、第2幕冒頭で歌われる、狩人ウベルトに扮した国王ジャコモ5世のアリア《おお、甘き炎よ》での出来事である。ケミストリーの当事者は、現代最高のロッシーニ・テノール、ファン・ディエゴ・フローレスと、生地ペーザロで開催されるロッシーニフェスティバルの総裁を父に持つ希代のロッシーニ指揮者、ミケーレ・マリオッティ。同作も含め、ロッシーニ作品で共演を重ねている2人だから可能になったと思わされた名演だった。

息が合っていたのは2人だけではない。ヒロインのエレナを歌ったジョイス・ディドナート、エレナの恋人マルコム役のダニエラ・バルチェッローナ、恋敵ロドリーゴを熱唱したジョン・オズボーンら、現役最高のロッシーニ歌手揃いのソリストは、世界中で共演を重ねているいわばロッシーニ・チーム。彼らが、そしてマリオッティのような指揮者が出現したからこそ、1819年に初演された《湖上の美人》が、およそ2世紀を経てMET初演を迎えることができたのだ。 

「ロッシーニの最も創意に富んだ楽譜のひとつ」(ディドナート)、「人間のあらゆる感情がくまなく描かれている」(バルチェッローナ)などと歌手達も絶賛する《湖上の美人》は、スコットランドを舞台にした恋と対立と和解の物語。最後は国王が恋に破れながらも敵対者たちを許し、平和が訪れる。エレナが歌う幕切れのアリア《胸の想いは満ちあふれ》は、ディドナートの言葉を借りれば「全曲を通じて平和を追い求めた」エレナの、「誰もが手にしうる平和の歓びへの讃歌」だという。その名曲を、ディドナートは彼女特有の深く柔らかな声で、心からの共感を持って歌い上げた。得意のズボン役で強烈な存在感を示したバルチェッローナ、超絶技巧を駆使するアリアで客席を興奮させたオズボーンも千両歌役者ぶりを見せつけた。
 
スコットランドの自然をイメージしたポール・カランの演出は、「シンプルに物語を伝え」ながら、「ロッシーニの音楽を引き立てる」(ディドナート)美しいもの。作品の本質を理解した演出と指揮に支えられ、名歌手たちが繰り出すめくるめく歌の数々は、客席を陶酔の渦に巻き込んだ。幕切れのアリアが終わった瞬間の沈黙と、直後に爆発した喝采の熱気の凄まじかったこと!間もなく上映されるライブビューイングでも、その興奮は十二分に味わえることだろう。

(C) Ken Howarad/Metropolitan Opera