加藤浩子(音楽評論家)
オペラの最後でドン・ジョヴァンニは、自分が殺した騎士長の亡霊に地獄へ引きずり込まれる。一件落着、めでたしめでたしのはずなのだが、なぜか観客も、そして彼を滅亡させようと追い回していた登場人物たちも、心に穴があいてしまったような寂しさから逃れられない。悪漢だけれど人間的で、亡霊の脅しにも屈しないドン・ジョヴァンニは、あまりにも魅力的なのだ。そんな人物を主人公に据えたオペラに、モーツァルトは彼の数あるオペラのなかでもっともドラマティックな音楽をつけた。愛と死、光と闇が渦巻く《ドン・ジョヴァンニ》は、オペラの黄金時代である19世紀、ロマン派の時代の幕開けでもある。
負けず劣らず出色なのは、もう一方の主役である3人の女性たちだ。父を殺されたり、棄てられたり、襲われそうになったりという理由で彼を追い回す3人の女性は、それぞれ個性的なキャラクターで、モーツァルトがいかに女を描くことに巧みだったかがよくわかるのだが、今回はまさに適材適所。ドンナ・アンナ役のH・ゲルツマーヴァは、冒頭でジョヴァンニに襲われるのが理解できる官能と悲劇性を兼ね備え、彼に棄てられたドンナ・エルヴィーラ役のM・ビストラムは、貴族らしい品の良さと一途さを透明な声で歌い上げる。加えて村娘ツェルリーナ役のS・マルフィときたら、声も演技も色っぽさそのもの。ツェルリーナは3人の中で一番男女の機微に通じている女性だと思うが、まさにその通り。傷を負った婚約者を癒す第2幕のアリア〈薬屋の歌〉には、誰もが蕩けるだろう。
粒揃いのキャストとセンス抜群の指揮が引き出す、天下の悪漢の華麗なる没落。METならではの会心の舞台である。
写真©Marty Sohl/Metropolitan Opera