2017年6月1日木曜日

何ごとにも『時』がある―ルネ・フレミング、エリーナ・ガランチャ最後の舞台!《ばらの騎士》みどころ

広瀬大介(音楽評論家)

この十数年来、「無人島に何を持っていきますか」という問いへの答えは、《ばらの騎士》の楽譜、と決めている。19世紀から20世紀にかけ、激動の時代を85年に渡って生き抜いたリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の最高傑作。それまでのオペラの歴史が培ってきた、あらゆる手法の集大成であり、20年以上この楽譜に付き合ってなお、新たな発見には事欠かない、汲めども尽きぬ泉のような音楽である。


 台本作家、フーゴー・フォン・ホフマンスタール(1874-1929)が舞台に設定したのは、華やかなりし18世紀のハプスブルク帝国。この作品の中でひときわ豊かな光彩を放っている元帥夫人マリー・テレーズは、夫・陸軍元帥の居ぬ間に、17歳の貴族の愛人、オクタヴィアンと情事に耽る。が、若い男と違い、女はそれが最初の恋でも、最後の恋でもないことを知っている。いたずらに時を重ね、自分は若さを失い、老いて行く。「何ごとにも、それを為す『時』というものがある」「ときどき自分は家中の時計を止めたくなる」と歌う元帥夫人。世の中に永遠不変のものなどない、という諦観と、その事実に心を引き裂かれて苦悶する気高い姿が、深いメッセージ性をもって、われわれの心に訴えかける。長く伝えられる名作には、ひとの精神的な成熟を促す力があるのだろう。

 田舎からやってきたオックス男爵の婚礼を仲立ちするため、オクタヴィアンは婚約の証としての「銀のばら」を届ける使者(この習慣自体は史実ではなく創作)として、ファニナル家の娘、ゾフィーのもとを訪れる。オックスの傍若無人な振る舞いにゾフィーは愛想を尽かし、オクタヴィアンは一芝居打ってオックスとゾフィーの婚約を破談へと持ち込む。そして、元帥夫人は若い二人の新しい門出を、自らが身を引くことで祝福する。重要な場面にちりばめられた恋人のひたむきな二重唱、オックスの小粋なワルツ、そして若い二人と元帥夫人がそれぞれの想いを吐露する三重唱、いずれをとっても、聴くものの胸を打たずにはおかない。


 ロバート・カーセンの演出では、同じハプスブルク帝国でも、18世紀ではなく、20世紀初頭、さしものハプスブルク帝国が滅びようとする第1次世界大戦前夜に 舞台が移される。第1幕は喪われゆく伝統、第2幕は武器売買で儲けた新興貴族の現代建築、第3幕は爛熟した世紀末、これらが作品に内包される『時』の移り変わりを見事に視覚化する。
長年この役を演じ、絶大な人気を誇るルネ・フレミング(元帥夫人)と、颯爽たるズボン役(女性が演じる男性)の第一人者エリーナ・ガランチャ(オクタヴィアン)のふたりは、この上演をもって同役から離れることを明言しており、上演史的にも貴重な舞台 。二人が、長年積み重ねてきた役への深い理解が演技の端々からこぼれ落ちるさまは説得力に富み、その毅然とした立ち居振る舞いには、METを埋め尽くした聴き手も喝采と涙を惜しまない。

好色というイメージで演じられてきたオックスに、ギュンター・グロイスベックは若々しく、精力的で、時代の流れに振り回される男、という新たな解釈 の可能性を与えた。ワーグナーやシュトラウスに精通したゼバスティアン・ヴァイグレは、METという空間にウィーンの『時』を現出させる。筆者自身も、無人島に持っていく想い出がまたひとつ増え、心が躍る。



(C)Ken Howard/Metropolitan Opera