小林伸太郎(音楽ライター/NY在住)
メトロポリタン・オペラがリンカーンセンターにある現在の劇場に移ってから、今年はちょうど50年目となる。METはこの記念すべき2016-17シーズンを 、ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》新演出上演で9月26日に開幕した。
決して満たされることのない愛を描いた、ワーグナーの最もロマンティックで濃密な作品である《トリスタンとイゾルデ》。後に「トリスタン和声」と呼ばれる独特の和声など、音楽史上、革命的な作品として知られるが、満たされない愛そのままにうねる独特の響きは、その世界に取り憑かれたら最後、抗い難い魅力で聴くものを虜にしてしまう。上演に5時間以上かかり、オーケストラ、歌手に対する要求がとりわけ厳しい大作でもある。そんなエピックを50周年記念の初日に持ってきたことに、METの過去に対する誇りと、未来への意気込みが感じられる。
この日の指揮は、サイモン・ラトル。2010年にドビュッシー《ペレアスとメリザンド》でMETデビューして以来の登場だ。2002年以来ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督を務めるマエストロ、世界的に引っ張りだこのため、再びMETに戻ってくるのに6年もかかってしまった。キャストも、イゾルデ役のニーナ・ステンメを始め、現在最高といわれる歌手が揃えられ、ワーグナー・ファンならずとも期待が高まる布陣だ。ニューヨーク音楽シーンでおそらく最も華やかな正装の観客で溢れるMETのガラの雰囲気が、その期待感をさらに倍増させる。
果たして劇場を満たした期待感は、あの有名な前奏曲の第一音から、静かに時空を包み込むような終幕まで、鮮やかに報いられた。オーケストラに「ウールよりもシフォン」の質感を繰り返し求めたというラトルの音楽は、時に激しい感情にうねりながらも、どこまでも清澄に流れる。その透明で混じり気のない美しさは、許されない愛かもしれないが、トリスタンとイゾルデにとってはどこまでも純粋な、唯一無二の愛であることを、静かに力強く語りかける。METのオーケストラも、ラトルの要求に十全に応え、これまでになく繊細なワーグナーを聴かせる。
マリウシュ・トレリンスキの演出は、開幕から繰り返し戦艦のレーダーを映し出し、1幕は巨大なるも息苦しい密室である戦艦、2幕は武器倉庫、3幕は病室と、非常に過酷な現代世界を背景に展開する。それはそのまま、トリスタンとイゾルデの二人が直面する過酷な現実でもある。トレリンスキは、映像も駆使して、とりわけトリスタンの孤独な旅路を克明に描く。そんな中、二人の怒り、驚き、憧憬、そして絶望は、どこまでも人間的にリアルに迫る。
トレリンスキの演出、そしてそれに応える出演者のニュアンスに富んだ演唱は、HDカメラもきっと鮮やかに捉えてくれることだろう。リンカーン移転後50周年を迎えるMETが、渾身の力を込めて送り出す《トリスタンとイゾルデ》。見逃さないでいただきたい。
写真
(C)Ken Howard/Metropolitan Opera
(C)Jonathan Tichler/Metropolitan Opera