池原麻里子(音楽ジャーナリスト)
《遥かなる愛》の上演はMET史上、歴史的瞬間であり、絶対に見逃せないと劇場に向かった私を迎えたのは、ステージ一面(オーケストラピットの上にもかかるほど)に青くまばゆく輝く約3万個のLEDライトの海だった!
私が今シーズンで最も楽しみにしていたのが《遥かなる愛》。METが女性作曲家の作品を上演するのは何と113年ぶりのこと。フィンランドが誇る実力派カイヤ・サーリアホが初めて手掛けたオペラだ。リブレット(台本)はアラブと欧州の2つの世界に跨り活躍している作家アミン・マルーフ。
_物語は12世紀のフランスとトリポリ(現在のレバノン・シリア付近)が舞台。実在したブライユの領主で・トルバドゥール(騎士歌人)のジョフレは、享楽的な生活に飽き飽きし、理想の女性との愛を渇望。トリポリの女伯爵クレマンスの美しさ、崇高さについて巡礼者から聞き、彼女こそ自分の理想だと想いを募らせる。クレマンスも巡礼者からジョフレの詩を受け取り、彼に対して恋心を抱くようになるが、自分が理想に値しているか不安だ。ついにジョフレは巡礼者と海を渡り、クレマンスに会いに行くと決意。しかし、トリポリに近づくにつれ、自分の決断が正しかったのかという疑いにさいなまされ始める…。果たして2人の愛の行方は?これは妄想と一途の愛、現実と幻想、芸術家の孤独を描いた切ない物語だ。
現代オペラというと敬遠なさるオペラファンもいらっしゃることと察するが、サーリアホの音楽はドビュッシー、メシアン同様、印象主義的で、本作品はトリポリも舞台となることから、ちょっとアラブ風のムードも。海にゆだね、包み込まれるような音楽に身を任せて、素晴らしいビジュアルをお楽しみいただきたい。
演出の鬼才ロベール・ルパージュは、ザルツブルク世界初演(2000年)当時、多忙を極め演出を担当できなかったことを悔やんでおり、本作品に対して強い想い入れがあったとか。ロープ状にした小さいLEDライトを何十本も張り巡らせ舞台を覆い尽くした。このライトは照明も加わり、夕陽あるいは月光に輝き、音楽に合わせ穏やかに、時には荒波を立てて波打ち、うねり、流れる。それは観る者を思わず別世界に誘う幻想的な美しさだ。
難しい曲を歌いこなすソロイストは3人。クレマンス役はスザンナ・フィリップス。クリムト的な衣装をまとい、未知の男性に慕われ、自分がその理想像に相応しくないという不安と、同時に愛される喜びを見事に歌い上げる。歌手として一層の成長が見られた。
彼女を慕うジョフレ役はベテランのエリック・オーウェンズだ。騎士としての崇高さと勇気、見たことのない理想の女性に恋焦がれる切なさを、あの深みのあるバスで美しく歌った。
両人の仲介者となる巡礼者役はタマラ・マムフォード。もしかすると実在しない運命、宿命の象徴なのかも知れない、その中性的な存在を歌うのに適役だ。
歌手陣とオーケストラをエレガントにまとめたのは、今回がMETデビューとなった女性指揮者スザンナ・マルッキは、MET史上、4人目の女性指揮者だ。彼女はサーリアホと同郷のフィンランド出身で、共通の音楽言語を身に付けており、抒情的、そしてセンシュアルに指揮した。
この素晴らしい作品の舞台上演に日本で触れることができる貴重な機会なので、是非、お見逃しなく。
©Ken Howard/Metropolitan Opera