2015年11月6日金曜日

究極の愛が染めたガラスの宮殿〜名作に新風を吹き込んだ若きスターたち 《オテロ》みどころ

 加藤浩子(音楽評論家)

 《オテロ》は、互いを愛しすぎたカップルの悲劇である。そう思えたのは、今回の映像がはじめてだったかもしれない。

 「オペラ王」ジュゼッペ・ヴェルディが晩年に完成させた《オテロ》は、シェイクスピアの悲劇をオペラ化した究極の心理劇だ。将軍オテロは、自分を恨む部下のイヤーゴの奸計にかかり、溺愛する妻デズデーモナが不倫をしていると信じ込む。《オテロ》は優れた演奏で聴くとあっという間に終わってしまうオペラだが、それはすべての音符がドラマと結びつき、最初から最後まで緊張感が続くからだ。追い詰められていくオテロを、たたみかけるように追い、威嚇する音楽。それは奇跡的で、残酷だ。

 《オテロ》というオペラは、デズデーモナが犠牲者だと感じることが多い。だが今回感じたのは、オテロもデズデーモナも犠牲者だということだった。ムーア人(黒人)という設定のオテロ役が、今回の演出では白人で、その分(もともと白人の)デズデーモナと平等だと感じられたこともあるだろう。通常オテロはムーア人であるがゆえに劣等感を持つと解釈されるが、別にムーア人でなくとも劣等感がなくとも、愛に不安を抱いた男は破滅しうる、そう思い知らされたのは新鮮だった。

  新しい発見をさせてくれた大きな理由が、オテロ役のA・アントネンコと、デズデーモナ役のS・ヨンチェーヴァの素晴らしい演唱にあるのは間違いない。

21世紀の「オテロ歌い」の期待を担うアントネンコは、この役にふさわしい悲劇的な響きと直情的なパワーをはらんだ声で、一本気で不器用な武将の転落を演じきった。一方のヨンチェーヴァは、今回がデズデーモナ役のデビューとは信じられない卓越した歌唱。ピュアで伸びやかで、感情のあらゆるニュアンスを映し出す声を武器に、「強い女性」(本人談)であるデズデーモナを芯の通った女性として描き出し、オテロへの愛ゆえに滅ぶ彼女の潔さをまっすぐに伝えて心を打った。これほど共感できるデズデーモナを、筆者は体験したことがない。

 若々しい2人に対峙するベテラン、Z・ルチッチによるイヤーゴは、ヴェルディが理想とした「悪人らしくない」イヤーゴそのもの。普通の人間に見えてその実冷酷で無関心という究極の悪人を巧みに表現した。

 Y・ネゼ=セガンの指揮は、《オテロ》ならではの緊張感を保ちながらも、〈愛の二重唱〉など人間的な部分は繊細に聴かせるなどバランス感覚に富み、ある意味理想的な音楽作り。《オテロ》は指揮者が中心になりがちなオペラだが、ネゼ=セガンは歌手も生かして成果をあげていた。彼と歌手たちの幕間のリハーサル風景からも、今回のキャストのチームワークがよかったことが感じられた。

B・シャーの演出は、オテロの心に見立てた「ガラスの宮殿」を舞台上に出現させ、波の映像の投影や照明で変化をつける、大がかりだがシンプルなもの。冷たい手触りの宮殿が、主役たちの心の炎や痛みにあわせて赤やオレンジに燃え上がる。それを目撃するたび、オテロやデスデーモナへの共感が沸き起こる。心を大胆に抽象化、具現化したことで、ドラマへの没入はかえって容易になった。《オテロ》という作品の普遍性をあぶり出したプロダクションになったと思う。名作に新しい姿を与えたMETの《オテロ》、必見である。


写真(C) Marty Sohl/Metropolitan Opera、(C) Ken
 Howard/Metropolitan Opera