2017年3月31日金曜日

“真実の愛”という夢の美しさと儚さ《椿姫》みどころ

 
林田直樹(音楽ジャーナリスト・評論家)

「一生に一度は観ておきたいオペラ」はたくさんある。
《椿姫》がその中でも特別だという理由を探すならば、一人の女性の生き様を、内面的に凝縮して描いた作品だからではないだろうか。
オペラがオペラたるゆえん、それは歌や音楽がドラマを重層的に描いていることである。複数の主人公たちが、同格の存在感をもって拮抗しあい、その歌声の全体がダイナミックに動いていくことこそが本来の“オペラらしさ”である。 

《椿姫》は、ヒロインの高級娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリーの心のありようがドラマの常に中心にある。恋人アルフレードやその父ジェルモンはわき役に過ぎない。当時のオペラの王道である歴史大河群像劇や、歌を最重視したベルカント・オペラとは全く違い、異例の「現代劇」で、主人公の心理面を深く掘り下げている。作曲家ヴェルディが当時のオペラの風潮に対して挑戦し、主人公に高級娼婦という社会的地位が低い裏社会の女性を選んだという点でも風変わりな「問題作」と言ってもいい。

ヴィリー・デッカーの演出は、2005年ザルツブルク音楽祭の復刻版だが、それをあえてMETが採用した理由は、この舞台が、上記の「内面性」を重視し、当時としては異例のシリアスな現代的作品であったことを正面から見据えた優れたプロダクションだったからだろう。
《椿姫》の本質とは、男たちの欲望や好奇の目にさらされながら、身を削って生きていかざるを得なかった一人の女性が、ほんの一瞬垣間見た、諦めていたはずの“真実の愛”という夢の美しさとはかなさに他ならない。
表面的な華やかさばかりの演出では、その暗い本質はなかなか表現しえない。


「真実の愛なんてばかばかしい。ありえない」と笑いながら、刹那的な享楽にのめり込もうとするけれど、少しも楽しくなんかない。病といつの日かやってくる破滅への不安を押し隠しながら――。そうしたパーティシーンで歌われるのが、第1幕が始まってすぐの、有名な〈乾杯の歌〉である。
この演出で舞台に置かれた巨大な時計と謎の人物は、“死”の象徴であり、ヴィオレッタの死に対する葛藤を表現している。

アルフレードとの運命的な出会いのあと、パーティの終わりでヴィオレッタが歌う〈不思議だわ!~ああ、そはかの人か~花から花へ〉は、単に技巧的なアリアではない。ソニア・ヨンチェヴァの可憐な歌唱は、信じるに値する愛の幻想をいっとき見つけた女性の心を余すところなく描いており、内面の音楽になっていた。

恋人アルフレード役のマイケル・ファビアーノ、その父ジェルモン役のトーマス・ハンプソン(息子に故郷へ帰ろうと諭す〈プロヴァンスの海と陸〉も端正な歌唱がいい)とも、抑制された演技と歌で、この内面的なオペラをよく支えている。
ニコラ・ルイゾッティの指揮は、要所要所でハッとさせる新鮮な表情も多く、この上演全体を引き締まった緊張感あるものにしている。今回の舞台を成功に導いた最大の功労者と言ってもいい。さすがの実力だ。

今回の《椿姫》、キーワードは「内面的」ということになろう。
ともすれば外見上の華やかさばかりにスポットが当てられがちな《椿姫》の真の奥深さ、作曲家ヴェルディの本質に鋭く迫っているという点において、こんなに重要で誠実な上演は滅多にない。
今後《椿姫》というオペラは、このプロダクション抜きには決して語りえない。

(C)Ken Howard / Metropolitan Opera, (C)Marty Sohl / Metropolitan Opera