2014年3月17日月曜日

偉大すぎる「日曜作曲家」:ボロディンの生き方


アレクサンドル・ボロディン
先日のソチ冬季オリンピックの開会式でも演奏されたオペラ《イーゴリ公》からの名曲〈だったん人の踊り〉。誰もが一度は耳にしたことがある、このロシアを代表する名旋律を作曲したのが、アレクサンドル・ボロディン(1833~1887)です。ボロディンほど多彩な才能を開花させた人間は稀でしょう。本業は医者でありながら、著名な化学者であり、一方、女性の医療教育の推進者としても活動し、その多忙な日々を縫って、作曲に勤しんでいました。ボロディンは、そんな自らを「日曜作曲家」と自称していました。

1833年、サンクトペテルブルグの貴族の私生児として生まれたボロディンは、ピアノ等の音楽も含め、幅広く優れた教育を受け、サンクトペテルブルグ医科大学に入学。優秀な成績で卒業後は、大学で医者として働きながら、化学の研究に没頭し、多大な業績を残します。代表的な業績のひとつに、現代の有機化学の教科書にも出てくる、「ボロディン反応の化学式」の発見などがあります。

ボロディンは化学者として公費で留学中の28歳のときに、結核治療のためサナトリウムに滞在していたロシア人ピアニストのエカテリーナ・プロトポポーヴァと出逢い、恋に落ち、のちに結婚します。彼女を通して、音楽の世界により広く触れることになったボロディンは、30歳になった頃に、ロシアの作曲家ミリイ・バラキレフと出会い影響を受け、ようやく、音楽の作曲法を学び始めるのです。

サンクトペテルブルグにあるボロディンの墓
「交響曲第1番」を約5年をかけて完成させた後、1869年にボロディンはオペラの作曲に意欲をみせ、《イーゴリ公》の作曲に取り掛かります。以降、彼が1887年に53歳で急死するまで、18年間に渡り、忙しい本業や研究の合間に、一曲一曲、書き溜めていきました。未完のままボロディンが急逝(死因は動脈瘤の破裂と言われています)したために、友人の作曲家リムスキー=コルサコフとグラズノフが、断片の楽曲をスコアとして纏め上げたのが大作オペラ《イーゴリ公》です。

第一線で活躍する化学者としての多忙な日々のなか、ロシアの伝統的な音楽を愛し、「日曜作曲家」として曲作りに心血を注ぎ、100年以上経った現代でも世界中の人々を魅了する名曲を遺した恐るべき「素人」、ボロディン。19世紀ロシアという激動の時代に、二足のわらじを履きこなし、自由闊達に、自らの可能性に挑戦し続けた彼の生き方は、現代を生き抜く私たちにも刺激と勇気を与えてくれます。