加藤浩子(音楽評論家)
圧倒。
《オテロ》は筆者にとって、その二文字が思い浮かぶオペラの最右翼だ。徹底的に「人間」を掘り下げるドラマとひとつになった音楽の力にただただ圧倒され、吹き飛ばされたように座席にはりついたまま、2時間が過ぎたこともあった。生の舞台に瑕はつきものだが、《オテロ》の場合、瑕だらけの公演であっても「(この作品は)凄い」と唸らせてくれる瞬間が必ずある。それが《オテロ》というオペラなのである。
ヴェルディはイタリア・オペラを歌手の歌合戦から人間の劇へと変えた、イタリア・オペラ最大のドラマティストだ。彼がドラマティストになれた理由のひとつは、シェイクスピアにある。文学青年だった10代の頃から、ヴェルディはイタリアではまだマイナーだったシェイクスピアに惹かれた。シェイクスピアの主要作品を、すべてオペラ化したいと夢見たほどだ。だが働き盛りに実現したシェイクスピア劇によるオペラは、《マクベス》だけだった。シェイクスピアのドラマの真実を伝えてくれる理想の台本作家に、巡り逢えなかったのである。けれど《マクベス》は革新的だった。「美しい声」が至上命題だったイタリア・オペラで、彼はマクベス夫人の邪悪なキャラクターを表現するために、「醜い、くもった声」を求めたのだ。それはまさに「革命」だった。
奇跡は最晩年に訪れた。シェイクスピア通で作曲家でもあった詩人アッリーゴ・ボーイトとの出会いが、ヴェルディの夢をかなえた。前作の《アイーダ》から実に16年の沈黙を破って発表された《オテロ》は、ヴェルディの大望が成就した究極の作品だ。《オテロ》は彼が生まれて初めて、劇場や出版社の依頼ではなく、ただ自分の芸術的な欲求を満たしたいがために書いたオペラだった。筆者はヴェルディ・オペラの最大の魅力は、襟首をつかまれてドラマのなかへ投げ入れられる快感だと思うが、《オテロ》はそれが最初から最後まで続く奇跡的なオペラなのである。
モシンスキーの演出によるMETのプロダクションは、重厚なシェイクスピア劇を堪能させてくれる理想的なもの。世界でも希少なオテロ歌い、ボータの豊麗な声が描き出す堂々としたタイトルロール、悲壮感を漂わせた美しい容姿と声が役柄にぴったりのフレミングのデスデーモナ、悪辣さ全開の声と演技で引き込むシュトルックマンのイアーゴと、粒揃いの主役陣にも期待が高まる。
写真(C) Ken Howard/Metropolitan Opera